論説:教員採用試験の穴

教室

報道でたびたび取り沙汰される、学校教師の犯罪。体罰、淫行、横領など様々。だがほとんどの教師は真面目に仕事に取り組んでいるのが実態。ニュースに取り沙汰されてしまうような教師はほんの一握りしかいないのであるが、一部が犯罪を起こせば全体が悪く見られるのは世の常。それならば犯罪撲滅に努めればよい。しかし毎年一定の割合で必ずそういった教師の犯罪が出てしまう。教師から犯罪を完全に撲滅できないのはなぜなのか。これには教員採用試験の形態が大きく関係している。

一般的に、「採用試験」とは、その道・その職業に対して適正をもっているかチェックするための試験だ。教員採用試験もそうでなくてはならないはずなのだが、実態はそうではない。教員採用試験は各都道府県で行われており、だいたいの場合「基礎教養試験(一般教養試験などとも呼ばれる)」「専門教養試験(専門教科・科目の試験)」「小論文試験」「面接(集団面接・個人面接)」があり、体育・音楽・技術家庭などはそこに「実技試験」が加わる。この形態が問題なのだ(ちなみに、コネによる採用は現在は行われなくなっている。)。基礎教養と専門教養、実技試験に関しては高い知識さえ持っていれば通過できてしまう(ちなみに9割方、これらの試験で優劣が決定されている)。小論文は形式さえきちんと守って書けているならば、あとは採点する側の好み次第。面接ではどの程度教師をやりたいかやる気が問われている。そう、教員採用試験は、「教師の資質」を問う試験が全く実施されていないのだ。

わかりやすく言えば、教員採用試験の実態は、教師の資質が伴っていなくても知識とやる気さえ見せれば合格というものになってしまっている。なぜこのような形態がとられているかというと、教員免許取得にも問題がある。教員免許は大学において、定められた単位を履修することで取得できるようになっている(介護等体験、教育実習も履修に含まれる)。その免許取得の道のりは教職課程と呼ばれる。そしてその教職課程は、必要な単位数が相当なものであるため、やる気のある者でないと取得できない。これが教育界においては、「教員免許を取った」=「教師として的確な資質を兼ね備えている」となぜか変換される形で捉えられてしまっている。実際は、ただ単位数と免許ほしさに教職課程を履修する者も多いのにもかかわらずだ。そのため教員採用では、「教師の資質」がある者のみが受けているという前提があるため、「教師の資質」が問われない試験になってしまっているのである。

このように、教職課程と教員採用試験に、共に穴が存在しているため、教師の資質を兼ね備えていない者まで現場に出てしまうことが起こっている。そして前述したとおり、これがニュースに取り沙汰されてしまうような犯罪を起こす層になり得る者たちなのだ。教職課程と教員採用試験が悪い意味で昔ながらの形態を堅持しているから、教師に適さない層までもが教師になってしまっているのである。

ただし、教員採用に「教師の資質」を問う試験を導入しようとした場合、一体どのような試験が「教師の資質」を問う試験として適しているのだろうか?人としての常識をわきまえているか、どのようなポリシーをもっているか、病児に対してどう接するか、イジメ問題をどう解決するか、保護者とどう向き合うか、学校行事にどう取り組むか、ホームルーム、学級経営、事務、課外活動・・・項目を挙げれば数限りないほど「教員の資質」を問う試験ができあがってしまう。おそらくその数は数千にも及ぶことだろう。現実的に考えて、「教員の資質」を問う試験は教員採用試験に導入できないわけである。例えば落語家のように長く師匠に仕えて襲名制・身分制を敷けば資質の見極めも可能だろうが、教師の場合、本物の教師になる前に仮として現場に出ることができるのは教育実習の数週間のみ。「教師の資質」を制度化することは不可能だ。苦肉の策として、各大学は、「教師になりたい人だけ教員免許を取るように」と呼びかけを行うことで、「教師の資質」を伴わない者は教職課程を取らないようにしている。が、それも呼びかけに留まっており、制度化は無理だ。結局、「教師の資質」を見極めて教師を採用する解決策は存在しないのが現実なのである。おそらく今後も一定数の割合で、教師の犯罪は起こっていくことだろう。

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赤松 伊織
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豊受真報編集長、赤松伊織です。読者の皆様に様々な情報をご提供できるよう精進してまいります。豊受真報をご愛読くださいますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。